やっと尾根に(平成26年3月15日)
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作成日時 : 2014/03/17 20:28
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高沢のバス停に着いた時はもう11時になろうとしていた。急いで仕度をしたが、また林道歩きが長かった。U字に曲がった林道をショートカットして尾根に取りつき、あらかじめ決めていた取りつき尾根と合わさるかと歩を進めるが林道に合わさる地点で崖になっていてせっかくの高度も下がってしまった。対側の崖は氷の壁になっていて脇から登ることも出来たが林道を進んで取りつき尾根に向かう。そこへスノーバイクの音が聞こえたかと思うとガソリンの臭いと共に先に消えて行った。その林道は取りつき尾根を切り刻むように抜けていて尾根はまたしても崖になっていた。さらに進むとやっと登れそうな斜面に出た。振り返るとこの前登った雨呼山の南面の荒々しい姿が見えた。
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今日のつぶやき
平成30年4月14日
読書会 シュティフター「水晶」
「石さまざま」の序においてシュティフターが述べる思想と、実際に書かれた「石さまざま」の短編にはズレがあることは良く言われることだ。簡潔に言えば、序ではデモーニッシュなことの価値を低くみているが、短編のなかで私たちを感動させるのはまさしく「白い闇」と表現された氷山である。そのズレを指摘する論述は多いが、書かれた内容から文学の形式に目を向ければ、そこにはズレは無いように思える。
序では毎日一定の時刻に地表の全面で磁石の針が北をさす精度の観察から小さな変化を見いだし、磁気嵐という自然の法則の発見につながったと指摘している。その繰り返された観察から小さな変化を見いだす、言わば「反復は差異を生み出す」と言う方法論は文学の方法に発展するだろう。
「水晶」では「そうよ、コンラート」が「反復は差異を生み出す」と言う方法論にあたるのだろう。同じ言葉を繰り返すことで、わずかな変化が見いだされる。祖母の家からの帰りに雪が白い焔に見えた時に最初の「そうよ、コンラート」がザンナから発せられた。氷山で一夜を明かし、救援の村人を見つけた時が最後の「そうよ、コンラート」だった。その言葉に託すザンナの心は読者が推測するしかないが、その反復される言葉によって作者が表現したかったのは、二人を包む家族と村の人の心の変化だと思う。
思想を表現することに文学の意義があるとは思わないが、その表現された作品には作者が思いもつかなかった思想が後世のために隠れていることは普遍的である。
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