雨の休日のオゼコウホネ(平成26年7月10日)
<<
作成日時 : 2014/07/10 17:18
>>
ブログ気持玉 0 /
トラックバック 0 /
コメント 2
一足早く夏休みを取った。この日も梅雨前線と台風のため高い山には行けない。そこで、こんな日でなければ足が向かない山形市野草園を散策した。自宅を出ると小雨が降って来た。西蔵王まで折りたたみ傘をさして登る。野草園には職員しかいないようだった。見ごろの山野草の案内を貰うとなんとオゼコウホネの文字があった。去年は月山の弥陀ヶ原で出会えなくてがっかりした花だ。ネムロコウホネは大鳥池の近くで偶然見かけたが、こんなところで間近に目にすることが出来て雨の日に感謝だ。睡蓮も咲き初めていて帰りの三百坊の蕎麦と熱燗が格別だった。
|
今日のつぶやき
平成30年4月14日
読書会 シュティフター「水晶」
「石さまざま」の序においてシュティフターが述べる思想と、実際に書かれた「石さまざま」の短編にはズレがあることは良く言われることだ。簡潔に言えば、序ではデモーニッシュなことの価値を低くみているが、短編のなかで私たちを感動させるのはまさしく「白い闇」と表現された氷山である。そのズレを指摘する論述は多いが、書かれた内容から文学の形式に目を向ければ、そこにはズレは無いように思える。
序では毎日一定の時刻に地表の全面で磁石の針が北をさす精度の観察から小さな変化を見いだし、磁気嵐という自然の法則の発見につながったと指摘している。その繰り返された観察から小さな変化を見いだす、言わば「反復は差異を生み出す」と言う方法論は文学の方法に発展するだろう。
「水晶」では「そうよ、コンラート」が「反復は差異を生み出す」と言う方法論にあたるのだろう。同じ言葉を繰り返すことで、わずかな変化が見いだされる。祖母の家からの帰りに雪が白い焔に見えた時に最初の「そうよ、コンラート」がザンナから発せられた。氷山で一夜を明かし、救援の村人を見つけた時が最後の「そうよ、コンラート」だった。その言葉に託すザンナの心は読者が推測するしかないが、その反復される言葉によって作者が表現したかったのは、二人を包む家族と村の人の心の変化だと思う。
思想を表現することに文学の意義があるとは思わないが、その表現された作品には作者が思いもつかなかった思想が後世のために隠れていることは普遍的である。
');
function google_ad_request_done(google_ads) {
var i;
if( google_ads[0] ){
document.write("
");
document.write("
");
document.write("
");
document.write("
");
}
}
// -->