谷空木
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作成日時 : 2016/05/16 18:34
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こんばんは、HITOIKIです。
埒もない考察に終わったような昨日の「反復」であったが、原文に忠実に辿れば、反復されるものについては記載がない。それならば、追憶と同じように「かつてあったもの」を反復すると解釈しても誤りでないか。これを前方に向かえばよい。つまり、反復とはかつてあったものを前方に向かって追憶すること、となる。すこし、すっきりした。
三吉山に稚児百合が咲いているらしい。ブドウ沢で見つけたが写真が取れずじまいだったので、待ち遠しい。三吉山の登山口に駐車して去年は時計周りだったから、今回は逆回り。林道を歩くとタニウツギが咲いていた。僕が登山を始めた翌年の春に天童の雨呼山に咲いていたのを思い出す。雨粒を抱いていたようで濃い紅色が心に残る。それからは、よくよく見かけるようになって、ありがたみも失せてきたが、谷空木と書くと源氏物語を連想するし、卯の花となれば夏はきぬとなって、上山も田植えが終わった。
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今日のつぶやき
平成30年4月14日
読書会 シュティフター「水晶」
「石さまざま」の序においてシュティフターが述べる思想と、実際に書かれた「石さまざま」の短編にはズレがあることは良く言われることだ。簡潔に言えば、序ではデモーニッシュなことの価値を低くみているが、短編のなかで私たちを感動させるのはまさしく「白い闇」と表現された氷山である。そのズレを指摘する論述は多いが、書かれた内容から文学の形式に目を向ければ、そこにはズレは無いように思える。
序では毎日一定の時刻に地表の全面で磁石の針が北をさす精度の観察から小さな変化を見いだし、磁気嵐という自然の法則の発見につながったと指摘している。その繰り返された観察から小さな変化を見いだす、言わば「反復は差異を生み出す」と言う方法論は文学の方法に発展するだろう。
「水晶」では「そうよ、コンラート」が「反復は差異を生み出す」と言う方法論にあたるのだろう。同じ言葉を繰り返すことで、わずかな変化が見いだされる。祖母の家からの帰りに雪が白い焔に見えた時に最初の「そうよ、コンラート」がザンナから発せられた。氷山で一夜を明かし、救援の村人を見つけた時が最後の「そうよ、コンラート」だった。その言葉に託すザンナの心は読者が推測するしかないが、その反復される言葉によって作者が表現したかったのは、二人を包む家族と村の人の心の変化だと思う。
思想を表現することに文学の意義があるとは思わないが、その表現された作品には作者が思いもつかなかった思想が後世のために隠れていることは普遍的である。
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