明月荘の水場(金明水)
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作成日時 : 2016/06/07 20:08
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こんばんは、HITOIKIです。
突然ですが、ブログは役立つ情報源でしょうか。その答えは多分、Noだと思います。なぜなら、書き手の本性が知れないからです。ですから、僕が書いている記事もお慰めだけにあると思ってほしいです。それでも書くのは私小説を書いたくなる自分がいるからだと思います。
目的の一つだった明月荘の水場(金明水)の下見は失敗に終わった。時間切れだったからだが、理由はもう一つある。まず、この写真を見ていただきたい。
水場の標識が倒れている。どうしてここに標識があるのだろうか。その時、僕は水場はここから谷に下ると考えた。しかし、谷に下る踏み跡はなく、まだ刈り払いが終わってないから、探せないのかと思った。多分、時間があったら間違いなく、谷を下ったと思う。しかし、水場は木道脇にある写真をあとで発見した(http://www.ftk-ac.net/01_hik/2015_hik/5180_higasidaiten/5180_higasidaiten.html)。
当然、標識がなければ谷を下ることは考えもしなかっただろう。
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今日のつぶやき
平成30年4月14日
読書会 シュティフター「水晶」
「石さまざま」の序においてシュティフターが述べる思想と、実際に書かれた「石さまざま」の短編にはズレがあることは良く言われることだ。簡潔に言えば、序ではデモーニッシュなことの価値を低くみているが、短編のなかで私たちを感動させるのはまさしく「白い闇」と表現された氷山である。そのズレを指摘する論述は多いが、書かれた内容から文学の形式に目を向ければ、そこにはズレは無いように思える。
序では毎日一定の時刻に地表の全面で磁石の針が北をさす精度の観察から小さな変化を見いだし、磁気嵐という自然の法則の発見につながったと指摘している。その繰り返された観察から小さな変化を見いだす、言わば「反復は差異を生み出す」と言う方法論は文学の方法に発展するだろう。
「水晶」では「そうよ、コンラート」が「反復は差異を生み出す」と言う方法論にあたるのだろう。同じ言葉を繰り返すことで、わずかな変化が見いだされる。祖母の家からの帰りに雪が白い焔に見えた時に最初の「そうよ、コンラート」がザンナから発せられた。氷山で一夜を明かし、救援の村人を見つけた時が最後の「そうよ、コンラート」だった。その言葉に託すザンナの心は読者が推測するしかないが、その反復される言葉によって作者が表現したかったのは、二人を包む家族と村の人の心の変化だと思う。
思想を表現することに文学の意義があるとは思わないが、その表現された作品には作者が思いもつかなかった思想が後世のために隠れていることは普遍的である。
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