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zoom RSS つぶやき アーカイブ「回想」

<<   作成日時 : 2017/11/30 21:43   >>

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〈謎のしるし〉
「思い出は、わたしの頭上にくだされる判決のようなもの、あるいは、わたしには意味のわからない謎のしるしみたいなものなのだ(白水社 人生行路の諸段階「《責めありや?》ー《責めなしや?》」キルケゴール著作集14 115頁)。」しるしは記号、シーニュのことで、僕が好きな言葉だ。山を歩いていると、ふとした風景が目に留まって、自分が蘇ったような感覚に包まれることがあるが、その風景がシーニュだ。思い出も無理に思い出そうというのではなくて、何かのきっかけで思い出されればそれはシーニュとなる。でもその思い出があたかも判決だったり謎のしるしとなってしまったらどうだろう。思い出に自己が引きずられたままで、にっちもさっちも行かなくなって、いっそ、その思い出の人と絶縁してしまいたい、そうなればやっと思い出にひたることができるとの話者の声が聞こえるようだ。しかし、自己と断絶した過去は思い出となっても、もはやシーニュにはならないだろう。蘇った思い出のなかの自分は全くの別人なのだから(平成30年1月4日)。
思い出が暴力的に蘇って思考を強制する。その思い出の持つシーニュの意味が解読できない間はそれは謎のしるしに留まる。そして、なんの答えもなく、その思い出は忘れさられることもあるだろう。でもその徒労に終わった思考は必ずや新たな思い出になって、反復させるだろう(平成30年9月9日)。
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〈いっさいの回想から身を引き離すとき〉
「彼は別れの挨拶として、なみなみと注いだグラスを持ちあげると、それを飲みほしてから、うしろの壁にあるドアへグラスを投げつけた。・・・しかし、人間がグラスもろとも無と忘却とのなかへ投げつけながら、あたかも自分が生命の危険におちいっているかのように、いっさいの回想から身を引き離すときの神酒、そのような神酒は地下の神々にささげるべきである(白水社 人生行路の諸段階「酒中に真あり」キルケゴール著作集12 155頁)」。あえて終止符を打つか、それとも、もう言うこともなくなって自然と終わるのか。偶然な出来事として浮かんできた回想は自分の意志で突然に中止させる。あえて破壊するから、回想はまたあらたに反復されるのだろう(平成29年12月5日)。
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〈片隅〉
グリブス=スコープに八道の隅という場所がある。・・・そこには実際に八つの道があって、しかもまったく孤独なのである。(白水社 人生行路の諸段階「酒中に真あり」序言 キルケゴール著作集12 32頁より)。キルケゴールが回想する場所は八道の隅だった。その道を通るのは逃亡者だけで、八道の出会うところがなぜか隅と呼ばれ、隠れ場となっている。そして回想する時間は午後のにぶい微光が射す頃。もっとも空想的でなく、何かを意味しようとしない時間に片隅でいれば、なんじ自身であることに満足し回想が回想を生む、という。グリブス=スコープは北海地方の最も大きな最も美しい森である。僕たちの山行もそんな隠れ場で誰も歩くこともなくなった山道を眺めながら、午後の木漏れ日を受けていれば記憶は失われ、ただ回想だけに満たされるだろう(平成29年11月29日)。
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〈不死〉
回想は人間のために人生における永遠の関連を維持してくれ、人間の地上での存在が唯一の関連になり、ただの一呼吸になり、一息で言い現わしうるものになるように守ってくれるだろう。・・・自分はときどき、一瞬間よりも長く不死という考えを持ちつづけると、その考えが自分の悟性を混乱させるにちがいないという気がする、と彼は言っている(白水社 人生行路の諸段階「酒中に真あり」序言 キルケゴール著作集12 22頁より)。HITOIKIと題してブログを書き続けて10年を越えた。わがキルケゴールも「一息」とのことばで人間の地上での存在を表現しようとしていることを知り、不思議に思った。それも「回想」という、僕がブログで大事にしていることが人生を一息(一呼吸)にしてしまうのだ。そうではなくて、いろいろなものになろうと鬼ごっこをくりかえし、記憶に残ることを多くすれば、回想も充実し、ついには不死ということも恐ろしいものでなくなるが、それは記憶と回想を混同による結論でキルケゴールの逆説的な言い方だ。実は不死は回想によって、人生は一息であると思われたときに真に生まれるのだろう。ところで、ボルヘスは不死は自分にとって、いやなことで、自分の人生はこれで限りになってほしいと言っている。たぶん、不死よりは回想が僕にとっても大事なように思える(平成29年11月28日)。
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〈忘却があるから回想が成り立つ〉
「だから、他人に対する関係において、忘却ということは、前に引かれた絹のカーテンであり、回想はそのカーテンのうしろへひっこむ貞操な未熟な未婚のおとめである。それが正しい回想でない場合は、カーテンのうしろにもう一度忘却がある、なぜなら、その場合忘却が閉め出されているからである(白水社 人生行路の諸段階「酒中に真あり」序言 キルケゴール著作集12 19頁より)」。回想とは回=想(内面化)のことで、それは忘却というカーテンをまとう。忘却があるから回想が成り立つ。決して記憶から回想が作られるわけではない。カーテンのうしろにもう一度忘却がある、とはキルケゴールらしい表現であるが、その場合忘却が閉め出されている、とあることから、忘却することを忘却することで、すべてを記憶に残そうとすることだろう(平成29年11月27日)。
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〈振り返ること〉
 左側サイドバーに山行100傑(月別)をアップした。記事のアクセス数の多い順に100の山行を月別に掲載。選に漏れた思い出の山行も数多い。例えば2月の番城山や1月の面白山など。振り返るのは楽しいがそれで立ち止まってしまうと、前に進めなくなるような脅迫感もある。振り返りが今後の山行のモチベーションになればいいのだが(平成28年12月2日)。今にして思うことは、振り返りは記憶に頼るのではなく、ふと蘇ってくるような回想ならば、その心象は時を超えていて、今の自己を映す鏡なのだろう(平成29年11月30日)。
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(写真は二ッ森山 平成23年4月29日) 

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