つぶやき アーカイブ「自己」

〈行動は何に依存しているのだろうか〉
 「精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のもとで考えられるまでなのである(第3部定理2備考)。」
 しかし、だからと言って、「身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神と思考の技能にのみ依存している」と考えてはならない。では、行動は何に依存しているのだろうか。
 あることを想起したり・忘れたりすることは精神の自由にはならないが、その想起や忘れたりすることと精神の決意は区別できない。この想起と同じくらいの精神の決意が行動とシンクロしていると言えよう(令和元年8月4日)。
 身体は精神に依存していると思うかもしれないが、その精神活動の原因があるはずだ。その原因が身体を精神同様に作用しているわけだ(令和2年3月16日)

〈他人を空中にぶら下げる〉
 「しかし彼にとって、他人の可能なる運命を-たとえそれが希望されたものであれ、恐怖されたものであれ-自分の前であちらこちらにひらひら動かしてみることが楽しみである。彼にとっては、他人の運命をもてあそびにし、あれこれの可能性を考え、他人をいわば空中にぶら下げ、一方、自分自身は誇らしげに、冷ややかに全体を軽蔑しているということが享楽なのである(愛のわざ第2部 白水社キルケゴール著作集16巻77頁)。」
 なんの説明もいらないだろうが、キルケゴールは彼のような人は絶望者であると断ずる。他人に絶望している人は自らに絶望しているのだと(平成30年2月21日)。
 可能性は希望そのものと思われがちだけど、「それは可能である、と言うところまでは絶望者も愛する人も一致している(一部略)」とキルケゴールは言う。他人を空中にぶら下げるとは、社会を論ずる姿勢の影の部分に通ずるのではないか。困っている人に無数の可能性をあげも慰めにはならなくて、唯一のものを示すことの方が救いとなることもあるのではないだろうか(平成31年2月14日追記)。

〈愛のために死ぬ〉
「およそ詩人をこの上なく喜ばせることは、愛する者が「わたしはほかのだれをも愛することができない。わたしはこの愛を放棄することができない。もしわたしがそれを見捨てなければならないのなら、それはわたしの死にひとしいだろう。わたしはむしろ愛のために死ぬのだ」と語ることであるが、まさにこのことが自己否定にとってはまるで気に入らない。・・・その献身は自己愛に他ならないからである(愛のわざ第1部15巻96頁)。」キルケゴールのキリスト教的考察は実名で書かれ、本心が読み取れるわけだが、献身は自己愛であるとはエリック・ホッファーの思想に通ずる。ホッファーは自分を重要視しないと教えるが、それはキルケゴールの自己否定の愛(自己愛を駆逐する)と意を同じにしているように思える(平成30年1月24日)。

〈役たたず〉
「他人とわたしとの関係についての最高の真実は、本質的にはわたしは他人のためになんの役にも立つことができない、ということである・・・(白水社 人生行路の諸段階「《責めありや?》ー《責めなしや?》」キルケゴール著作集14 101頁)。」それでも、その他人が不幸になるようにと願っているわけではない。あくまでも他人の幸せはその他人が自分の責任で勝ち取るものであり、そのためにわたしは偶然にその場に居合わせただけである。わたしの言葉や行動は他人のためではなくて、自分自身を見つめるためだけであろう(平成30年1月2日)。
 良いことをしよう、善行を積もう、そうすれば救われる。そのことに異を唱えるとともに、受動性、受け身の力を静かに述べているように思える。真実は他者に縋るしか生きられない自己であることにある、と思いたい(平成30年9月5日追記)。

〈義務〉
 「分相応の義務を静かにはたしてゆくことのほうが、精神の世界でのぜいたくや、まるで自分こそ主なる神だというように人類全体のことを心配して興奮の浪費をすることよりも、無限に価値の多いことで、(白水社 人生行路の諸段階「《責めありや?》ー《責めなしや?》」キルケゴール著作集13 212頁)」話者は義務においてだけわたしは神の崇高さと従順に協調している、また、義務を軽蔑すれば、神はたちまち高貴な存在になってしまう、という。義務とは何か大事な事に自分を従わせることで、もし義務を軽んじれば、その大事な事と自分との関係性は失われ、ついには自分自身も消えてしまう、と思われる。自分の行動する根拠となるものを、尊いものと崇め立て祭り、そのことで、それに従うこともせずに、自分は救われると勘違いするのではなく、あくまで、素朴なものを無視せず、分相応の義務を静かにはたしてゆきたいものだ(平成29年12月19日)。

〈単純な人間〉
結婚して子どもを生み、そして子どもに背かれ、老いてくたばって死ぬ、そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活のしかたをして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ・・・日々繰り返される生活の問題以外にはあまり関心を持たないで、生まれて老いて死ぬという生き方がもっとも価値ある生き方だ(吉本隆明の183講演より A26 自己とは何か──キルケゴールに関連して)。晩年の吉本の講演を聞くと理想の人生として職人の生き方とあったのを思いだす。明日の生活だけを心配して生きるのが一番。そのキルケゴールを批判した一文の元となったキルケゴールは「単純な人間は問題をそのまま理解する。だが賢者がこれを理解する段になると、それは無限にむつかしい問題と化する(キルケゴール著作集 第7巻(白水社)哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき 287頁)と、言う。職人のような単純な人間がなぜもっとも価値のある生き方かというと、賢者が一歩一歩達する真理を単純な人間は直覚し、実践してしまうからなのだ平成29年11月21日。

〈別天地〉
 無名兵士の言葉はアメリカ南北戦争に敗れた南軍兵士の言葉であるが、加藤諦三の本で初めて知った。以下に引用する「大きな事を成し遂げるために 強さを求めたのに 謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/ 偉大なことができるようにと 健康を求めたのに よりよきことをするようにと 病気を賜った/幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の称賛を得ようと 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった/人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに あらゆるものを慈しむために 人生を賜った/求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた 私はもっとも豊かに祝福された」。求めたはずの強さや健康や富や成功の代わりに得たものは弱さや病気や貧困や失敗だった。それは、強さや健康や富や成功では学べないものがあるからだと加藤諦三は指摘していた。弱さや病気や貧困や失敗に遭遇したときに自分はどういう態度をとるかが大事だと。その態度にこそ最上の価値があると言うが、それではその態度とはどんなものか。加藤は「ひなげし」を例にしていて、そこから自分らしさの大事さが伺われたが、自己をリアルに見る態度こそが最上の価値であろう。矢内原伊作は「歩きながら考える」で法隆寺百済観音について「私は、作者はまさしくこの通りに現実の少女をみたのであり、これをリアルな、迫真的な像だと言いたいのである。・・・真にリアルなものが真に普遍的であり、このことが別天地をつくりだすということを経験したのではなかったか。してみれば別天地は、これから私が戻って行こうとしている現実そのもののなかにこそあるのではなかろうか。」と、述べている。この「別天地」は無名兵士の言葉の「弱さや病気や貧困や失敗」につながる。ジャコメッティの痩せ衰えた犬の像がまさに私たちに迫真的に迫るように、ある意味デフォルメされたように見える姿-別天地-によってしか自分のリアルな姿は見えてこない(平成29年11月11日)。

〈自己犠牲〉
元来己を捨てるということは、道徳からいえば己を得ず不徳も犯そうし、これは漱石の言葉である(私の個人主義 31頁 講談社)。つねに取り返しのつかない死と背中合わせにある短命な自己ほど、重要なものはない。だからこそ、自己放棄は解放であり、救済であるかのように感じられるのだ、とのエリック・ホッファーのアフォリズムを思い出した(平成28年12月19日)。

〈世捨て人〉
「わたしは、それほど深く全身まで、自分を抵当に入れることはできない。モンテーニュ「エセー7」141頁 白水社」松岡正剛の千夜千冊のこの引用に触れてもう10年になるだろうか。自分を抵当に入れてはいけない。皮膚と肌着を区別する。職業はにわか芝居みたいなものだ。モンテーニュは晩年の2年間をボルドー市長として、その責務を果たした。その時の心得がこれだった。では、その自分とは、肌着を脱いだ自己とは、何か。キルケゴールは「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。」という。それならば肌着を着た自分と裸の自分との関係、その関係それ自身が自己なのではないのだろうか。抵当に入れないとは党派性を極力嫌った、モンテーニュの生き方であったが、様々な職業、色々な考えの人たちとの関わり(関係性)が自己なのではないのだろうか。メンテーニュは厭世の思想家と言われることがあるが、そうではないのだろう。良寛が手毬をついていても、托鉢をして村人と接していたように、全くの世捨て人には自己すら、失われているように思う(平成28年12月5日)。

〈変貌する自己〉
 セーレン・キルケゴール「死にいたる病」から「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫27頁。訳注に「The self is a relation which relates itself, or it is that in the relation that the relates itself to its own self; the self is not the relation but that the relation relates itself to its own self.」と英訳が紹介されている。関係とは複数のものがあって、それらの間で想定されるものであろう。それ自身(itself)と関係するとは、ある関係と関係それ自身が別々にあると仮定しなければ、関係は生まれない。すなわち、それ自身は変貌する、その変貌する両者の関係が自己であるということだろう(平成28年12月1日)。

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