つぶやき アーカイブ「真実」

〈見せかけ〉
 範型〔同じもの〕ー似像〔似ているもの〕の区別は〈似像ー見せかけ〉の区別を確立し、そして適応するためにしか存在しないのである(差異と反復 198頁)。
 本を読んだり、誰かに触発されて、なにか理想的な行いをしたいものだと思うことはあるだろう。その時、頭にあるのは 範型(イデア)だとしたら、その 範型と自分を見比べて、これからの行動の選択に当たる。すなわち計画(区別)を立てるだろう。その見比べることは、自分と見せかけとの区別に言い直される。
 見せかけを否定して 範型に憧れ、近づこうとする(似ようとする)のではなく、肝要なことは自分は見せかけになれる、見せかけを創造できるのだということだ(平成31年1月7日)。
 イメージにはコピーと見せかけの二種類があるとドゥルーズ はいう。その背景には良いイメージ(コピー)と悪いイメージ(見せかけ)とを区別しようとするプラトンに対する反発がある。それを踏まえてコピーと見せかけについて考えてみるとしよう。範型(イデア)とどのくらい似ているかを競ってみることで、見せかけを排除するのではなく、コピーと範型(イデア)との違いを見いだす力が差異(見せかけ)を養うのだろう(令和2年2月20日)。8477546383_95cdfec48a_c.jpg
〈他との混合はすこしも許さぬようなもの〉
 つまりわれわれにとって確実なものは、純粋なもの、真なるもの、そしてわれわれが明々白々なと呼ぶところのものは、ただかのものを対象とする場合においてあるのだということだ。かのものとは常に同一性を保ち、同じ状態で、他との混合はすこしも許さぬようなものであって、われわれの対象とするのは、それか、あるいはこれに最も親しい同族関係にあるものでなければならない(岩波書店 プラトン全集4 パルメニデス ピレボス 313頁)。
 プラトンによれば自然は生成したものであって、常にあるものではない、としてそれを明確なものではないとする。常に同一性を保つものは、この世、この自然にはないが、それをあくまでも追求するところに西洋思想の源流があるように思う(平成30年11月12日)。
 人はこの世にないものを求めがちだ。それは現実逃避につながるとしても。そうして、何人の人が騙されたことか(令和2年1月6日)。
49337895503_1f4279b679_c.jpg瀧山の氷筍
 〈シレノスの覆い〉
 しかし、もし誰かがその覆いを開いて内部を見るなら、その人はまず、その言葉だけが意味のある言葉だということを見出すだろう。そして次に、その言葉はとても神聖であり、その中にはたくさんの徳の像が含まれていることを見出すだろう(プラトン 饗宴 光文社186頁)。ソクラテスはシレノスのように、その覆いが開かれた時にその神聖で徳のある姿が見出されるとアルキビアデスは言う。それはソクラテスの実像だろう。
 しかし、プラトンはむしろ、その美は、ほかのなにものにも依存することなく独立しており、常にただ一つの姿で存在しているものなのだ(150頁)と言う。
 ここに、ソクラテスとプラトンの主張の違いが見て取れるように思える。ソクラテスはシレノスの覆いをまといつつも、彼の姿や言葉にこそ真実はあると言う。それに対してプラトンはある見方では美しいが別の見方では醜いと言ったものは美そのものではないとする。
 シレノスの覆いを纏った、さまざまなものはただ一つとは言えないだろう。美そのものはさまざまのものの中に隠された、さまざまなものではないだろうか(平成30年9月17日)。
 プラトンが描く作品には様々な人物が登場する。その人々はみな生き生きと描かれていて、どちらの言い分が正しいかは今の私たちには問題ではないのかもしれない。それはエーゲ海の海と空の色のように澄んでいて、開放的だ(令和2年1月2日)。
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月別山行100傑(平成21−28年)