仙人沢の朝(平成26年5月31日)
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作成日時 : 2014/06/09 18:43
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4時に目覚めた。早起き出来たことだけで嬉しい気分になった。昼までにサッサッとお山に登ろう。お目当ては雪渓の残る沢の向こうに見えるブナの新緑。笹谷峠もやっと開通した。仙人沢の登山口にはまだ車はなかった。夜が明けたばかりだろうか沢沿いの道にも虫は少なかった。日差しはまだ低く谷の上方を柔らかく照らしている。水面に輝く光の影が見えず残念。沢の近くの谷までは朝日は届いて来ない。それなら朝靄があれば幻想的なのにとないものねだりをしてもつまらない。仙人大滝の流れも瀧山同様白糸のようだ。滝下には行かずにイワカガミが桜色に薄化粧をしているのを這いつくばってから九十九折りを登ってから巻道に入る。岩盤に垂れていたトラロープは去年より短くなっていた。ヤセ尾根に木漏れ日が私をいざなってくれる。
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今日のつぶやき
平成30年4月14日
読書会 シュティフター「水晶」
「石さまざま」の序においてシュティフターが述べる思想と、実際に書かれた「石さまざま」の短編にはズレがあることは良く言われることだ。簡潔に言えば、序ではデモーニッシュなことの価値を低くみているが、短編のなかで私たちを感動させるのはまさしく「白い闇」と表現された氷山である。そのズレを指摘する論述は多いが、書かれた内容から文学の形式に目を向ければ、そこにはズレは無いように思える。
序では毎日一定の時刻に地表の全面で磁石の針が北をさす精度の観察から小さな変化を見いだし、磁気嵐という自然の法則の発見につながったと指摘している。その繰り返された観察から小さな変化を見いだす、言わば「反復は差異を生み出す」と言う方法論は文学の方法に発展するだろう。
「水晶」では「そうよ、コンラート」が「反復は差異を生み出す」と言う方法論にあたるのだろう。同じ言葉を繰り返すことで、わずかな変化が見いだされる。祖母の家からの帰りに雪が白い焔に見えた時に最初の「そうよ、コンラート」がザンナから発せられた。氷山で一夜を明かし、救援の村人を見つけた時が最後の「そうよ、コンラート」だった。その言葉に託すザンナの心は読者が推測するしかないが、その反復される言葉によって作者が表現したかったのは、二人を包む家族と村の人の心の変化だと思う。
思想を表現することに文学の意義があるとは思わないが、その表現された作品には作者が思いもつかなかった思想が後世のために隠れていることは普遍的である。
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